国名:ソマリア民主共和国 首都:モガディシオ 宗教:イスラム教 民族:ソマリ族 言語:ソマリ語
アフリカ大陸の東北端に位置し、「アフリカの角」と呼ばれる。イタリアとイギリスの植民地だったが、1960年に独立。アフリカの国としては珍しく単一民族・単一言語・単一宗教だが、6つの氏族、16の準氏族に分かれていて、独立後から権力争いが続く事になる。60年代、マレハン氏族のバーレが政権を握り、社会主義の独裁政治を始める。70年代にはソ連、アメリカから経済・軍事援助を受ける。80年代になるとバーレ政権に対する他氏族の反発が表面化。北部はイサク氏族によるSNM(ソマリア国民運動)、中部はハウイエ氏族によるUSC(統一ソマリア会議)、南部はマレハン氏族によるSNF(ソマリア国民戦線)の3つの支配地に分裂する。三つ巴の内戦の末に、1991年、ソマリア最大の武力を誇るアイディード将軍率いるUSCが、バーレ大統領を追放して首都のモガディシオを制圧する。しかし、今度はUSC内部でアイディード将軍派とマハディ暫定大統領派との抗争が起こり、冷戦時に米ソから供与された武器を使って激戦となる。内戦は他氏族を巻き込んで全土に拡大し、ソマリアは無政府状態に突入した。
『バレ大統領逃亡の報が伝わるとまもなく、ものすごい勢いで略奪があらゆるところで始まった。この国で機能しているものは、もうなにもなかった。独立から三十一年目、ソマリア国は消えてなくなった。』(「ソマリア・レポート」)
わずかに生産される食料は作るそばから、武器を持った強盗集団に奪われた。見る間に飢餓が広がり、餓死者が続出する。その餓死者の大部分は当然のことながら、武器を持っていない老人、子供、女性であった。食料不足から国を捨て、対岸のイエメン、隣国のケニアに脱出する難民も激増していた。1992年、国連、赤十字やNGO団体によって食料援助が行われるが、武装勢力による援助物資の強盗・略奪、NGOへの襲撃・殺害によって、援助活動は阻害された。現地での状況は悪化の一途をたどり、それぞれの武装勢力は軍隊というより、食料ゲリラ、武装強盗団というものになりつつあった。しかもそれは数百人から数千人の規模で、機関銃、大砲はもちろん戦車、装甲車まで保有していた。人道援助活動、PKOでも状態を解決できない現実に対して国連は、国連初の「人道目的のPKF活動」を決定。米国が主力となる国連平和維持軍がソマリアに展開され、この作戦は「希望回復作戦(Operation Restore Hope)」と呼ばれた。
国連ソマリア活動にとって最大の障壁は、強大な武装勢力アイディード将軍派だった。
この勢力は長くソマリアを支配してきたババルギディル族(ハウイエ氏族の支氏族)で、内戦の間に備蓄したソビエト製兵器を持ち、極めて好戦的なグループで、アイディード将軍に強く忠誠を誓っていた。国連軍によって食料配給とともに武装解除も行われたが、アイディード派はこれに強く抵抗。ソマリアでは武器を保有する事によってのみ、支配力を維持できるからだった。アイディード将軍は国連軍に対して宣戦布告し、パキスタン兵への襲撃を皮切りに、武装勢力と国連軍の戦闘が頻発するようになる。
『アイディードは、国連が自分たちをソマリアから排除しようとしていることを感じていた。そのような国連の意図を、自らの武装勢力の力で粉砕するつもりだった。93年3月頃からアイディードは、大量の重火器を首都モガディシュの市内へ運び込んでいった。6月5日、国連平和維持軍はアイディードに対して武器庫の査察を行うと通報した。すでに多くの武器を移送していたアイディードは先手を打って、首都モガディシュに展開するパキスタン軍を攻撃した。パキスタン兵22名が殺害され、いくつかの死体は切り刻まれて冒涜された。国連は加害者の一斉検挙を決議する。国連平和維持軍としての米軍の任務が、ソマリアへの人道支援活動の保護から、ソマリアの部族勢力や武装勢力との戦闘、特にアイディードの逮捕、彼の武装勢力の殲滅へと変化する。』(「現代の戦争被害」)
1993年10月3日、モガディシオでアイディード派幹部逮捕に向かったアメリカ軍とアイディード派の間で戦闘が勃発。ブラックホークヘリが民兵によって撃墜され、アメリカ側にもソマリア側にも多数の死傷者を出す激しい市街戦となる。アイディード派は民衆に引き回されるヘリの搭乗員の遺体や、捕虜にしたヘリのパイロットの映像を全世界に放送させた。この衝撃的な映像を見たアメリカ国民からは撤退論が噴出し、クリントン大統領は米軍撤退を決定。この事件はアメリカの外交政策に強く影響をあたえ、米政府はその後何年も他国(94年のルワンダ内戦など)への介入に対して消極的になる。
『米軍はブラックホークは兵員輸送ヘリとして高速であり、操縦性能も高く、手榴弾を空気圧縮で押し出すようなRPGで撃ち落とされることは絶対にないと考えていた。しかし、思惑ははずれ、兵員をオリンピックホテルにホバーリングしながら降ろす際にはブラックホークはRPGの格好の的となった。墜落したブラックホークをモガディシュの住民が囲む。古タイヤを燃やして黒い狼煙を上げる。そこに武装したソマリア民兵や民衆が集まってくる。民衆全員に弾を撃ち込む気なら、すぐにでも一斉射撃をすればよいが、それでは非戦闘員を殺すことになる。逡巡している間に米兵は殺害されていく。そのうちモガディシュの幾つかの地点で、孤立する米兵が出てくる。日が暮れると暗視装置なしでは照準を定めて反撃できなくなる。救援部隊が来るころには、米軍兵士十八名が死亡、少なくとも七十四人が負傷していた。』(「現代の戦争被害」)
ソマリア紛争を人道的に解決しようとした国連PKFは失敗に終わる。内戦は継続し、今も無政府状態が続いている。 96年のアイディード将軍(写真左上)の死後、息子のフセイン・アイディード(元アメリカ海兵隊員)がその跡を継いだ。 墜落したブラックホークや破壊された装甲車の残骸は、現在もモガディシオに残されている。下段写真は最近のソマリア。
『最終的には22カ国の兵士が、維持する平和など無かった土地で、国連平和維持軍に参加した。何人の兵士達が命を落としたことだろうか。(中略) ソマリア人を助けにいって、ソマリア人に殺される理不尽さに腹が立つ。これをはるかに超えるソマリア人が、希望回復作戦以後、命を落としたことも間違いない。ソマリア人を助けにいって、ソマリア人を殺すはめになった理不尽も悲しい。ソマリア人の犠牲者については、確かな数字さえ存在しない。自業自得のものもいる。けれど、戦争はいつも罪のない多くの犠牲者も作り出す。』(「ソマリア・レポート」)
93年のソマリア内戦と関連が深い、94年のルワンダ内戦を扱った映画「ホテル・ルワンダ」とともに、内戦と介入について考えてみるページ。